あ行
「確証する」とか「支持する」という意味を持つ ヘブル語の「ア-マン」に由来する。 教会では、祈りや賛美・説教の時などに使われる。 「本当にその通りです」の意味。
クリスチャン達が共に持つ食卓(晩餐)。 クリスマスやイ-スタ-などの特別な日や、 洗礼を受けた人の祝いに開かれる事もある。
証言すること。神が自分に対して くださったこと(救い・特別な配慮 すなわち恵み・聖書や試練からの 教訓など)を他の人々に話すこと。
奴隷に売られた者、あるいは敵の手に
陥った者を、身代金を払って買い戻すこと。 聖書の中では、罪と関連させて「罪の赦し」を 意味することが多い。私たちは、罪を犯したため、 罪の奴隷、悪魔の奴隷になってしまった。 そこで神は、その愛のゆえに、イエス・キリストの 十字架の血という尊い「身代金」を払ってもう一度 私たちを買い戻し、神の子としてくださった。
罪と悪をもって神と人に敵対する霊的存在。 聖書にはサタン、誘惑者、批判し訴える者、 悪霊どものかしらとも記されている。最初の人 アダムが神よりも悪魔の言うことに従うことを 選んで以来、生まれながらの人間は皆、この悪魔の とりこ(神に背を向ける者)になっている。 悪魔は元は神の働きをする天使の長であったが、 自分自身が神の代わりになろうとし、 その尊い立場を失い、地に落とされた。 悪魔と共に堕落した天使たちが、「悪霊」と 呼ばれる霊的存在の者である。
日本語では「待降節」。ラテン語の Advevntus(来臨)に由来する。イエスの 誕生以前の4つの日曜日と1月6日までの 期間で、待降節とも言われる。
神の私たちへの愛の一つのあらわれ。 私たちが自らの過ちによって受けなけらば ならない当然の恥や呪い、罰を、神が愛に よって免れるようにして下さること。 その最たるものがイエスの十字架。 イエスは私たちの罪の恥と呪いと罰を 十字架の上で代わりに受けて下さった。 「あわれみ」・受けるはずのものを、 受けないこと。恵みとは別の意。
安息日は礼拝と休息のために神が定めた日で 土曜日にあたる。ユダヤ人はこの日仕事から 解放されて神に礼拝を献げ、魂の安息を得た。 キリストの弟子達はキリストが死んで3日目の 「主の日」(日曜日)によみがえったので、やがて 日曜日に礼拝を守るようになった。聖日、主日とも言う。
日本語では「復活祭」。イエスが十字架にかけられ、 3日目によみがえり、弟子たちの前に姿を現された ことにより、神であることを証明された日、または それを記念する日。 全教会の代表者が集まった、 325年の二ケア会議で、「春分の日の次の起こる 満月の次の日曜日」がイースターと制定。 よってイースターの日は毎年異なる。 キリスト教会の最大の祭りで、その名称は チュウ―トン族の春の女神Eostreに由来する。
聖書は、イエスこそ、救い主メシヤ(キリスト)で あることを宣言している。それで、 キリスト・イエス(またはイエス・キリスト)と 並べてその名を呼ぶようになった。 従って、 聖書が「イエス・キリストを信じるなら救われる」と いう意味は、「イエス・キリストという名と 姓を持った者が存在したことを信じる」と いう意味ではなく、「イエスを自分の罪の救い主 キリストと信じる者が救われる」という意味である。
元来は正統に対し、正統から見て容認しがたい 特質をもつ考えやグループを異端と見なす。 現代では、異端という言葉は、キリスト信仰を 標榜してはいるが、キリスト信仰の基本用件である キリストの十字架の贖いと復活による罪の赦しの 教理と著しく異なる教えの体系をもっている カルト的宗団を異端と呼ぶことが一般的。
「神は私たちと共におられる」の意味。
神の素晴らしさのこと。例えば聖書は、 イエス・キリストは神の栄光の現れである と言っている。つまり、イエス・キリストに よって神の素晴らしさ-聖さ・正しさ・ 愛・喜び・平安・寛容など-が遺憾なく 発揮された。クリスチャンの生きる目的も、 神の栄光・素晴らしさを私たちの体で日々の 生活において現すこと。
すべきことをしないこと。 「咎」も「負目」も 共に神の前に罪とされる。
か行
「普遍」の意味で、ローマ教会の名称に用いられた。 組織的には、イエスがペテロに与えた救いを与える鍵を、 法皇が受け継ぎ、法王が教団の最高位に立つ階級制度をとる。 天に貯えられた諸聖人の功績を、信徒に、彼らの献金や 祈りに応えて法皇が分配する。死者は天国に入る前に いったん煉獄に入るが、地上にいる人々の祈りや功績に よって、煉獄から天国に入ることができると言う教えに立つ。
元来は宗教か否かを問わず「小集団」を意味するが、 新宗教・新新宗教を既成宗教と区別して「カルト」と呼ぶように なった。とくに、その中でマインドコントロールや、 組織や教祖に対する過度の忠誠の要求などによって、 家庭崩壊、人格破壊、学業放棄などの社会問題を併発する例が 多発することから「破壊的カルト」と呼ばれる。
賛美をしたり聖書を勉強したりするよりも、 祈りを捧げることを中心とする会。個人的な祈りの 課題を分かち合うことも多い。
救い主の意。「キリスト」はヘブル語“メシヤ (「油注がれた者」の意)”のギリシャ語訳。 「救い主として、神から特別に定められた者」という意。 聖書は、イエスこそ、救い主メシヤ(キリスト)で あることを宣言している。
ミッション・スクール。
正しいことの意。聖書には「善悪の知識」は 神のものであり、天と地を創造された神にこそ 善悪の絶対的基準があると教えている。 従って義とは、神の前での正しさ、神の目で ご覧になって正しいことを指している。 聖書にある「信仰による罪人の義認」というのは、 神がイエス・キリストを自分の罪の救い主と 信じる者を、イエスの十字架のゆえに、義人と 認めてくださることを言っている。 神の要求に完全にかなった行為をして義人と 認められる人は、一人もいない。イエス・キリストの 十字架は、それゆえ神の義と愛の完全な現れである。
信仰や真理を求めている人。一般的に、 教会には来たが信仰を告白していない人のこと。 教会にしばらく行き続けると自分で 意識してないにもかかわらず、求道者と 呼ばれることがある。自分はまだ求めるまでには 行っていないと思い、そう呼ばれるのを不快に思う人も いるかもしれないが、それは集会に臨む態度を嬉しく 思っている人が教会の中にいるということの現れである。
信仰を持ったクリスチャン同士を 兄弟または姉妹と呼び合うことがある。 肉親が血縁によって結ばれているとすれば、 クリスチャンは、キリストが流された 尊い血によって結ばれていると考えられる。
心を正しい方向に向け変えること。方向転換の意。 神から離れ、神を礼拝しない心は、いわば神に背を 向けた状態にある。聖書はそれを罪、と言っている。 そこから色々な悪い事、問題、惨めな状態という 「もろもろの具体的な罪」が生まれてくる。 「根本的な神に対する罪」を認め、方向を変えて 神に目を向け、神を信じる(信頼する)人になることが 根本的な真の悔い改めである。 神に対する『根本的な悔い改め』の後、人は神の助けを 受けて、もろもろの罪という間違ったいろいろな生き方に 気付き、本来の正しい生き方に一つ一つ方向転換ができる。 それが『クリスチャンとしての悔い改め』である。
天と地を創造し、救い主キリストによって現れ、 私たちを完全に救ってくださる真の神以外の 人間が造り出した神々の事。 ある時は人間が 祭り上げられ、ある時は獣や大木、山など ありとあらゆるものが礼拝の対象になる。 金、銀、石、木などの材料でその形が 作り上げられる場合が多い。真の神はこのような 偽りや迷信、欲望中心の礼拝や儀式を 偶像礼拝として聖書の中ではっきりと禁じている。
イエス・キリストの誕生日。キリストの誕生祭。
クリスマスの聖夜。クリスマスの前夜祭。
教会の運営に役立てるため、主に礼拝で募られる。 献金する額は人それぞれで、クリスチャンは 神様に捧げるため、各々の収入に応じた献金をするが、 クリスチャンでない人達はその時々、お茶代や 場所代の代わりなど教会を支援したいという理由のもとで 自分で判断した額を献金している。その方法は教会や 教派によって違うが、当教会では献金の強制は しないので、手ぶらだろうと財布が空っぽだろうと、 礼拝への出席は大歓迎である。
伝統的にはフルタイムの伝道者や牧師、宣教師に なることを決意し、そのための備えとして神学校などに 入ることを指す言葉として使われてきた。聖書が示す 概念はより広く、からだ(全人格)を生きた供え物として ささげる生き方としての献身は全信徒に求められている ことから、クリスチャンは全員献身しているはずだという 見方もある。一般にはそういう決心をしている伝道者や 宣教師、牧師などを献身者という。
元来は「福音」を意味するが、アメリカで 黒人奴隷がその苦難の中で神への訴えを歌った 黒人霊歌をルーツとする教会音楽が 「ゴスペル(ソング)」と呼ばれるようになった。 やがて黒人だけにとどまらず、白人の間にも広まり、 音楽的にも多様なスタイルを包含してポピュラ-な 教会音楽を「ゴスペル」と称するようになった。よって、 元来の黒人のゴスペルを「ブラック・ゴスペル」と 呼んで区別することもある。
イエス・キリストのもとに、しもべのいやしを願い、 その信仰が賞賛されたローマの百人隊長の名コルネリオ。 コルネリオ会(キリスト者自衛官の集まり)の由来。
さ行
キリストが、十字架にかかる直前に弟子たちと共に 持った最後の食事。レオナルド・ダ・ヴィンチなどの 絵画で良く知られる。このとき、キリストは、パンを ご自分の体、ぶどう酒を多くの人の為に流すご自身の 契約の血潮として分かち、後にキリストご自身を 記念してこのことを行うように奨めた。教会では これを守って聖餐式を行う。
イエスが地上に救い主として来られ、天に帰られた後、 終わりの日に裁き主として再びこの世界に来られること。 最初の来臨(クリスマス)は、私たちの罪を十字架で 負うために来られた。しかし、2度目(再臨)は、 救いの完成・神の国の実現のために来られる。今は それまでの「恵みの時」。神は一人でも悔い改めるのを 持っておられる。最初の来臨も再臨も聖書に詳しく 預言されており、最初の来臨は完全に実現した。
→悪魔
収穫感謝の日。聖書にも出てくる収穫の祝い。 アメリカでピリグリム・ファーザーズ(巡礼者の父祖 たち)と呼ばれたピューリタンがアメリカに移住、 上陸したときの収穫の初物を神に捧げたことに始まる。 11月第4木曜に行われる。
4世紀頃の司教で北欧に伝わる慈愛の聖二コラスなどに よる、貧しい者を憐れんで物を献げたり助けたりした 行為が伝説化された空想上の人物で、 クリスマスになると子供達にプレゼントを 持ってくるとされる。このセイント・ニコラスの オランダ語発音「シンタ-・クラ-ス」(Sinter Klaas)が 呼び名の由来とされる。本来その衣装は、青、緑、白など さまざまな色で描かれていたが、1931年以来コカ・コ-ラが サンタを広告に登場させることにより、赤白との衣装が定着。
神は唯一。すなわち人間を造った神は存在するが、 人間が造った神は存在しない。聖書はその真の神が、 父なる神・子なる神(イエス・キリスト)・聖霊(御霊)なる 神であることを示している。このことを三位一体と表現。 父なる神:支配の中心 - 天におられる 子なる神:救いの中心 - 天の父なる神の右におられる 聖霊なる神:助けの中心 - クリスチャンの内におられる
聖書は、三位一体の神のそれぞれの働きがあって初めて、 私たちは存在し、救われ、新しい人生に入り、祈り、 よい実を結ぶことができるのだと教えている。
→兄弟
主人のこと。聖書では天と地の究極の
主人として「神」を指す。イエスを「主」と 告白することは、第一にイエスを神である救い主と 告白することであり、第二に自分がイエスの 「しもべ」であることを証しすることである。 クリスチャンには人生の主人がいるゆえに、 はっきりとした生きる目的がある。しかし、 この主人を否定するなら、人はどこにも生きる目的を 見出すことはできない。
→サンクスギビングデー
イエスの時代において、最も残忍かつ野蛮な 死刑の道具および方法。その時代受刑者は、 原則的に奴隷、強盗、死客、謀反を起こした ローマの属洲の重罪人に限られていた。 イエスは、私たちが神に対して犯した罪のために 受けねばならなかった刑罰を、私たちに代わって 受けられ、十字架につけられて死なれた。
神が私たちの真の幸い・真の喜びのために 特別な配慮をして下さること。必要な物が 与えられるといった物質的なことの場合や、 精神的・霊的・人格的な成長、訓練、また心の 平安・喜びといった目にはみえないものの場合もある。 子供の願うことがすべて最善と言えるのではないので、 親は愛のゆえに子供の願う通りのことをしないことが ある。それと同様、人の願い通りになることだけが 祝福なのではない。神は愛をもって私たちに最善の 訓練と導き、必要を与えてくださる。このような 神の私たちへの配慮こそ、何よりの祝福である。
→Good Friday
→Palm Sunday
『頌』は、訓読みで「ほめる」、「たたえる」と 読み、「主の御名を賛美します。」とか 「ハレルヤ」の代わりに手紙などの冒頭で 挨拶文のように『頌主』書かれることが多い。 ちなみに 末尾には、「栄光が主なる神様に ありますように」と言う意味で、「栄光在主」や 単に「在主」という言葉で結ばれることがある。
人間の最も根本的な問題である「罪」と、 最も根本的な危険である「罪の罰(永遠の裁き・死)」 から助け出されること。それはまた、罪人の 私たちが「義」と認められ、「永遠の命」を 与えられることを意味している。 罪や死が事実であり、現実的なものであるゆえに、 神はイエスの十字架と言う事実、現実によって 私たちに救いの道を用意してくださった。 イエスの救いは教えではなく、現実的な事実である。
→バイブル・スタディ
『最後の晩餐』でキリストが奨めたことを 守るために行われる式。 パンとぶどうジュースを使って行われる。
歴史と国境を越えて人々に人生の指針と心の 拠り所を提供してきた『永遠のベストセラー』。 神の霊によって書かれ人の救いのために逐語的に 神に啓示された神の御旨。クリスチャンの信仰と 実践のための唯一の神聖な規範でもある。
セイントデー(Saint Day)
セイント・ニコラスのオランダ語発音「シンタ-・クラ-ス」(Sinter Klaas)がサンタ・クロ-ス呼び名の由来とされる。西暦325年に行われた「二ケア会議」で、三位一体の教義に賛成票を入れ、クリスチャン信仰の基礎建設に重要な役割をした人だという説がある。
唯一の神の第3位格といわれる。聖書では「聖霊」以外に「霊」、「神の霊」、「主の御霊」、新約聖書では「キリストの御霊」「主の御霊」とも呼ばれている。 人がイエスを信じるように導かれ、信者と共に歩まれて、「助け主」とも言われる。
→ペンテコステ
聖徒の日。世界中にキリスト者、聖書が広がった祝日。11月第1日曜日。
→伝道
信仰によって主に従う人生の歩みに入れられた印しとして、水の中に入って全身を水につけたり、水を頭に注いだりする。新約聖書でイエスが手本としてこれを示している。ギリシャ語ではバプテスマ。
た行
→アドベント
人が神から与えられているもの。全ての人々に平等に与えられる福音を賜物ということもあるが、通常は個性や才能、特技など、神のために使うことができるものを指すが多い。
罪とは神に背を向け、神の律法(ことば)に逆らうこと。また、聖書の原語であるギリシャ語ではもともとの意味は「的(目的)を外す」こと。良いことをしていても的(目的)を知らず、的をはずしているなら罪になる。例えば、掃除をすることは良いことだが勉強する時間に掃除をすることは罪である。同様にまじめに生きていることは良いことだが、神を知らず、生きている目的(的)を知らずに的をはずして生きていることは罪といえる。「咎」も「負目」も神の前では罪とされる。
神に仕えて働く超自然的・霊的存在。天使はみな一様ではなく、人間同様それぞれ人格を持っている。神の命令に従って具体的な仕事を実行している。しかし、あくまでも神から委ねられて神の働きをしているのであり、天使を礼拝したり、守護天使のようにお守りとすることは禁じられている。悪魔とは人間や他の天使から神のように扱われることを願って堕落した天使である。
福音を知らない人達に広めること。『道』とは、キリストを指す。
してはならないことをすること。「咎」も「負目」も共に神の前に罪である。
神と人との間に立ち、仲介者となって働く愛の働き。イエスは天の父なる神の右にいて、私たちの「罪の赦しのとりなし」をしておられ、聖霊なる神はクリスチャンの内にいて弱い私たちため、「祈りのとりなし」をして下さっている。同様にクリスチャンは、祈りにより、また具体的な行いや伝道・証しによって、他の人々の救い・本当の幸いのため神に「とりなす」ことができる。
な行
西暦325年、現在のトルコのあるニケアという町で開かれた、全教会の代表者が集まった公会議。クリスチャン信仰の根本である「三位一体」を確立し、イ-スタ-を制定。「サンタ・クロース」の由来とされる聖ニコラスも参加、「三位一体」の確立に一票入れたと言われる。
は行
→Ash Wednesday
文字通り聖書(Bible)を勉強すること。本来は『聖書研究』、略して『聖研』と言うのが普通だったが、多少堅苦しく聞こえることと、日本人が何故かやたらと横文字を使いたがるという漢字離れからなのか、『バイブル・スタディ』と言われることが多くなった。それをまた略して『バイスタ』と言うこともある。
→洗礼。バプテスト教会のバプテストの由来。
キリストが十字架にかかる代わりに釈放された罪人の名バラバ。ミッション・バラバ(元ヤクザのキリスト者の会)の由来。
ヘブル語で「主を賛美せよ」、「主に栄光あれ」の意。他の人の賛美やメッセージ(説教)・証しなどを聞き、神に心の感謝と喜びを表したいときにこの言葉を使うことがある。
聖徒の日(Saint Day)前夜祭。ハロはオランダ語で聖徒。ウィンは前夜を意味する。キリスト教が世界に広まり、悪霊の惑わし、偶像礼拝、迷信などが一掃されたことを記念してちゃかし、楽しむキリスト教文化の一つ。
聖書におけるイエスについての「よい知らせ」。ギリシア語では「ユーアンゲリオン」で、英語ではゴスペル、グッド・ニュ-ス。福音派(Evangericals)の由来。
女性のための祈りを中心とした会。
→イ-スタ-。
カトリックの教理と伝承にプロテスト(抗議する)の意味からプロテスタントと呼ばれる。16世紀に、カトリック教会の腐敗と「免罪符」の制度に対し、マ-ティン・ルタ-が聖書の事実を示して、これに抗議したことによって、彼と彼に続く改革者たちをプロテスタントと呼ぶようになった。当教会もプロテスタント教会。
神にすべてを委ねている人の、穏やかな心の状態を表す言葉。祈りによって自分の願い事を神に知って頂いた人は、神が最善の答えを下さると確信しているので、周りに起こってくる出来事に悩まされない。神がすべてのことを益として下さるという聖書のすばらしい真理を知り、信じている人は、目の前の状況に左右されず落ち着いて「平安」に希望を持って生きることができる。
50の意味。日本語では「聖霊降臨日」。ユダヤ人3大祭の一つで、春の収穫感謝祭、五旬節、七週の祭りとも呼ばれる。イエスが十字架にかかり甦られてから40日目に天に帰られて後10日目、天から聖霊がくだって弟子たちに注ぎ、弟子たちが福音を伝えるように導かれ、世界中に伝道を始めたことをを記念する日。ペンテコステ派の由来。
一般的に教会では神の仕事、働きをすること。教会は神の働きをする場として、神によって建てられた。クリスチャンはその教会において神に仕える。例えば、各種のイエスの福音を伝えるための集会の準備(案内作成・配布・招待・会場準備・掃除等)、実施(司会・奏楽・案内受付係・託児・接待・カウンセリング等)、日曜学校、教会事務(会計・書記等)などいずれも欠かすことのできない神の働き、奉仕。
本来は羊飼いの意味。羊を荒野の獣から守り、同様に人々がこの世で迷わずに歩むように導く神自身を指すのと同時に、教会の牧師も牧者と言う。
羊飼い(牧者)が羊を導き荒野の獣から守るのと同様、クリスチャンや未信者にこの世で迷わずに歩むように導くため聖書の言葉を教え指導すること。
ヘブル語で「今救いたまえ」の意。
ま行
神との交流、またはクリスチャン同士の交流。罪のある状態では、神の声が届かないが、キリストの十字架の死による犠牲の恵みを受け取ることで、人々は神から罪の赦しを受け、神との交わりの中に入ることができる。共に聖書を学ぶこと、賛美すること、集会後感想を話し合ったり自己紹介をしあうこと、食事を共にしたり遊んだりすることなども含む。
神が私たちに進むべき道を示して下さること。神は私たちの人生に、また実生活に具体的な関心を持っておられる。それ故、私たちは祈りと聖書を通して、どの道をどのように歩んだら良いのかを神から教えて頂くことができる。聖書の約束・「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
イエス・キリストを通して神から受けるすべての祝福のこと。『受ける価値のない者が、受けるはずのない尊いものを受ける』こと。例えば、罪人に対する神のはかり知れない愛、イエス・キリストによる救い、キリストによって与えられる力など。「恵み」は一方的に与えられるもので、何かの働きによって与えられる「報酬」とは違う。受けるはずのないものを、受けること。「憐れみ」とは別の意。
キリスト教主義学校。キリスト教ミッション(宣教)のために建てられたスクール(学校)。
や行
自分の道・重荷・思い煩いなどを神に任せ、神に信頼すること。神は誰よりも私たちを愛し、私たちのために最善をなして下さる方であるから、祈って結果は神に委ねる。私たちはどんなに思い煩って心配しても、思い煩いや心配からは何も良いものを得ることはできない。私たちにとって大切なことは、今、自分に任されていることに対し、最善の努力を傾けることである。『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦(すべきこと)はその日その日に、十分あります。』(聖書)
預言は神の思い・意志・計画等について、神の言葉を預けられ、人々に告げること。従って、預言は単に未来の出来事についてだけではなく、その時代の人々に対する忠告なども含む。同じ未来であっても、「予言」は預言の内の未来についての予測を言い、未来についての確実な神の約束については「預言」と言う。旧約聖書の預言の中心はキリストの生涯と死と復活による私たちの神による救いを予告し約束することであった。そしてこれは予言ではなく預言。
ら行
神の定め、ル-ル。また、人間の使命、あるべき姿など神の私たちへの求め。最も有名なものに「十戒」がある。そこには、私たちの神と人とに対するあるべき姿や姿勢、することができる使命や義務が要約されている。 新約聖書では、モーセ五書全体(モーセが書いた五つの書)、時には旧約聖書全体を指して用いられることもある。 ただ表面的に守れば良いと言うものではなく、愛と真心を持って行うことに意味がある。律法によっては人は救われないが、律法は正しく、善い、聖なるもの(ロ-マ7:12)で、人に罪を示し、人を正し、戒め、義に導き、矯正し、キリストへの養育係をし、良い奉仕者に整える。真のクリスチャンは律法を守ることで守られ、助けられ、祝福を受け、律法を無効にせず、むしろ律法を確立する(ロ-マ3:3)。私たちは律法、甘い主の教えを喜びとし、昼も夜も口ずさみ、実行するなら、実を結び、祝福される(詩1:2~3、ヤコブ1:22~25)。
信仰復興・刷新などと訳される。停滞していた信仰が活性化されることから転じて、伝道が飛躍的に進展し信仰に入る人々が急増する現象をイメージすることが多い。クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず神に対する真剣な「悔い改め」が起こることをリバイバルの特徴とする見方もある。
神を拝むこと。教会では安息日に行われ、教会の中心となっている集会で、神への賛美を捧げ、牧師を通した聖書の言葉からのメッセ-ジを聞く。当教会では毎週日曜10:30amから行われる。
Ash Wednesdayから始まるイ-スタ-の前までの日曜を除いた40日間。イエスの苦しみと死を思い、イ-スタ-を待ち望む期間。四旬節、受難節、大斎節ともいう。全教会の代表者が集まった、325年の二ケア会議でイエスの荒れ野での40日間の断食に習って設定された日数。
広場、駅前など、教会堂から町へ出ていって、説教や賛美、証しなどをして福音を伝えようという伝道の形態。
レントの初日。中世から西方教会ではこの日に、初期には罪を悔い改めた者が頭上に祝別された灰(前の年のPalm Sundayに使われた棕櫚の葉を燃やしてできた灰)をかぶり、後期には全員が額に灰の印を受けて懺悔の印としたとされる。
Contemporary Christian Musicの略。伝統的な讃美歌や聖歌に対し、ゴスペル・ソングなど新しい音楽のスタイルをもった賛美。形式的にはロック、ポップス、ジャズなど様々なスタイルがある。
日本語では「受難日」。イエスが十字架にかけられた日、またはそれを記念する日。「God's Friday」がなまったものという説がある。
日本語では「棕櫚の聖日」。イ-スタ-の前の日曜日。イエスが十字架にかけられる前、ロバに乗ってエルサレムに入城した際に、群衆が棕櫚の木の枝をとってイエスを出迎えたことからこう呼ばれる。